勉強しやすいよう

子どもの中に自信を芽生えさせます。

耳できいただけでわかる言葉をきかせてもらえ六わんわんというような言葉を数百回繰り返してきいていると、自然に実に不思議だが意味がわかってくる。とにかく、繰り返しで、最初の言葉を覚える、ということを忘れないようにしなくてはならない。
いくら母乳が栄養に富んでいるからと言って、いつまでも与えていれば発育に悪い。
れで離乳をする。このごろは、かつてより離乳が早い。
そしバヨ1、0言葉でも同じ道理である。母乳語によって、言葉だけでなく赤ん坊としての知恵もつくが、いつまでもそれだけしか教えないと、やはり頭の発達がおくれる。言葉も離乳しなくてはならない。離乳のための言葉が離乳語である母乳語と離乳語はどこがどう違うのか。
前にものべたように、ウソのつける言葉が離乳語というわけだ。

子どもを特に息子を殴るというよう

りくつがわからない三歳くらいのこどもに、であるとにかく高度の言語へ切り換えをさせなくてはならない。
たいへんたいていの子が言葉の離乳ができるのは、オトギ話によってである。オトギ話はすべてまっ赤なウソのつくりごとである。これを反復きいているうちに、こどもはふとこれも実に不思議だがこの世の中にないことをあらわす言葉がある、目に見えないものをさす言葉がある、ということをさとるこのオトギ話による言葉の離乳が不徹底だと、母乳語と離乳語がチャンポンになる。

 

父親に何を望む

その結果が、さきの小学一年生のA君のようになる。算数の教科書に書いてある言葉は離乳語、つまり、抽象性の高い言葉である。ところが、A君はそれを日常の現実性の中へ引きこんで考えるから、たろうくんに苗字がないのがおかしいと思われる。ミツビシかトンボかコーリンかが気になる。算数のたろうくんは桃太郎の太郎と似たようなものだということがわかっていないから混乱するのである離乳語で書いてあるのは算数だけではない。理科、社会……みんな同じだ。こどものとき、言葉の離乳に失敗すれば、学校へ行くようになってからすべての学科がわからなくなってしまう。つまり、学習がうまくいかなくなる。生れつきではない。母親の教育の失敗である。このことを世のお母さんたちがしっかり心得てくれないために、こどもたちがどれだけかわいそうな苦労をすることか。それをご存じない学校の先生がいかに空しい努力をしなくてはならないことかオトギ話の教え方にも工夫がいるが、ここではくわしくのべているゆとりがない。
子どもに物を大切にする

学校に行けるようにしようか?

ただひとつ言っておきたいのは、絵本で、はなしを教えないことだ。きれいな絵本を見ていると、せっかくの離乳の教材であるオトギ話が母乳語で受けとられかねない母乳語には父親の出る幕はすくないが、離乳語の教育には父親も参加できる。
加すべきである。オトギ話のほかに、たとえば、どうして交通信号があるのか、うなことを話してやるのは、離乳語の教育としてたいへん有効であるむしろ参というよこのごろは女の人がしっかりしている。
つける家庭でも奥さんは黙っていない。
ご主人を叱り
こどものしつけ、教育にしても、ママが独裁者のごとく振舞っている。育児についてのしっかりした自覚や体験、知識、技術があってのことならともかく、そうでないのに、生んだから育てられるわよ、といったような母親が勝手なことをしたら、どうなるか、考えてみなくてもはっきりしている。
父親は忙しいことに、幼児のいるような家庭では父親は家へ帰ればねるだけというよぅなことになる。こどものことは母親まかせというのが普通だ。それがまた困った結果をまねく。父親はだてにあるのではない。父親は子どもにとって母親についで、第二の、そして最高の先生である。

子どもが自分

そのことを忘れている家庭があまりにも多い。
離乳語の教育は父親にもできると言ったが、父親は母親とは違った役割をもっている。
母親はやさしくこまかいことに気を配る。それに引きかえ、父親は大まかなことをきめる家庭の中へ外の社会をもちこむ存在である。父親はいくらかこわい人であっていい。
ところが、戦後は、父親がだんだんこわくなくなってきたのである。それも対照的に母親がこわくなった。夫婦の間でも、奥さんの方がしっかりもので、ご主人の影がうすい。それが新しい時代の家庭のように考えられている。母親が二人いるようなものだ。
よくマイホーム主義といわれるが、父親の弱い家庭にマイホーム主義が多い。
そういう家庭で育った幼児はこわいものを知らない。外の風というものにふれたことがないから、幼稚園へ行くとびっくりしてしまう。友だちとのつきあい方がへたである。うちはいいが外はいやだと言う。そうして、登園拒否、登校拒否児になってしまう。父親がしっかりしていないからそういうことがおこる。父親よ、先生としてしっかりしたまえである。

子どもが生まれるときにどんなにその命を待ち望んだ

子供の日常のすべての行動についてこどもの教育なんか、わたしには関係ない、などと言っていてはとんでもないとになる戦後の教育のひとつの欠点は、権威というものの存在を見失ってしまったことだ。権威は悪いもの、すべて危険なものときめて、もっぱら権威粉砕をこととしてきた。父親の権威はそれでめちゃめちゃになった。権威を知らぬ人間は謙虚さを忘れる。分を知らなくて生意気になりやすいことにわが国では活力のある宗教がない。神の存在を感じて育つ子は例外的であろう。親もこわくない。神仏はいない。先生も話せる。
そういう甘ちょろいことで、問屋がおろさないしっかりした人間が育つのならめでたいことだが、そうはしつけ、ということがいわれる。


子供の日常のすべての行動について 母親のそうした意識 母さんの声をしっかりと聞き分けている