いじめなど

子どもに記憶

考えなども、どんどん進めるだけが能ではない。本当にすぐれた思想になるのは
立ちどまった考えが大きく育つ。
学校の先生はいい、長い休みがあると言われる。遊んでいて月給をもらって、んと考える向きもあるらしい。そういう俗物の思惑など気にしないで、教師は、しばしば何年も
寝させておいた考えである。
けしから休みは長おもわくい昼寝の時間と思って、ゆっくり立ちどまることだ。
それでダメなら、走りつづけていればもっとダメになる。
放っておけばいいいつの時代でも、若者は大人に対して反抗的である。青年がネコのようにおとなしく、社会の良俗が命ずるままに行動しているようであったら、その方がよほどおかしいのだ。

子どもが思っていなければならない。

若者は生意気で、キザで、乱暴で、言葉は知らないし、何をしでかすか知れなくて、目を離すことができない。昔から大人たちはそう思っていたに違いない。
しかし、普通の人たちは、そういう若者のことをさほど気にもとめていなかった。どうせそのうち、あいつだって、ものがわかるようになるさ、そういってタカをくくっていたのである。大人に自信があった。
現代の若者もとくに珍種というわけではないのだが、大人が腰抜けになって、若者の顔色をうかがう。何を言っても、向うが相手にしてくれないと、若者たちはご棲嫌が悪い拒絶的である、などと世の中がおろおろするという始末である。まあ、天下泰平の瑞兆とでも申しておこうか。
昔の若者と現代の若者に違いがあるとすれば、レビがあったということであろういまの若いものには、生れたときからテテレビはものを言う。しかし、返事はしてくれないときにテレビは問いかけのようなことをするが、視聴者はそれに答える必要はない。

 

子どもへの対応

答えても答えなくても、知らん顔をして先へ進む。テレビとテレビを見ている人間は、関係があるようでいて、実は
カンケイナイ間柄なのである。
こういうことを、ごく幼いときから、徹底的に教育されている。話しかけられても、知らん顔をしていればいい、面倒くさい。お母さんにかまって貰おうとして話しかけたら、うるさいわねッ、いま、いい所なのよッ、とテレビをにらんだまま叱られるのが落ちだ。
もの言えば唇さむしテレビの前、であるお母さんが傍にいればまだいい方である。どこできき覚えてきたものか、ある母親はテレビはべビーシッターである、というような話を得々と言いふらし、忙しくなるとテレビに子守りをおしつける。
人間は教育次第でどうにでもなる。
子どもに尋ねる場合

子どものときによき節度を学ぶ

何を言ってもとり合ってくれないテレビという子守りに育てられると、世の中はガラスの向う、ブラウン管の中にある、それは自分とはかかわりのない別世界だ!そういう気特をもつであろう。もたないとしたら、よほど頭の悪いこどもに違いない。
こういうこどもが大きくなって、人から話しかけられても、なすべきところを知らない。
それに、直接自分に向かってよくも知らない人間が話しかけることがあろうとも思っていないから、まず、びっくりしてしまう。驚いて、知りませんッとつい強い口調で言ったするのである。

教育の対象となるよう

それを野暮な大人たちが拒絶的態度などと騒ぐものだから、二度びっくりするというわけだ地震、雷、火事、親爺こわいものの四天王だった。
ほかの三つは健在だが、親爺は戦後のどさくさにまぎれて失脚した。
こわい親爺は白いカラスくらいに珍しいものになったデモクラシイという新しい生き方が、海の向うから渡来した。それで、父親はどこか滑稽な役割を演じなくてはならないような破目に追い込まれたのである。
体罰などは論外になった。
きつい言葉もご法度である。
こどもに対しても友人のように振舞うことが新時代の話せる親爺であると、錯覚した自他ともにやさしい、やさしいパパができて、一番被害を受けることになったのが、ほかならぬ-どもである。

体験したのでした。

子どもに対して格別昔のこわい親爺は、権威をもっていたから、反抗し甲斐があった。たいていの場合は親に抑えつけられてしまう。何とかしてはねのけて……と思っているうちに成長していたのであるところが、のれんのような父親では相手にならない。学校の教師もまけず劣らず腑抜けである。どこかがんと一撃くらわせてくれる頼もしいのはいないか、と探すが見当らないそこでやむなくとんでもない相手と手ごたえを試すところまで発展するどうせ、本気になって受け止めてくれないようなのに、あれこれ言ってみたって無駄である。


子どもに対して格別 子どもは覚えたての歌を唱いだす。 母さんこの前間違ってしまってごめんなさいね